NHK のドキュメントを見て、日本人の宗教観についてちょっと書いているんですが、一話目の副題に「外国人イスラム教徒に知ってもらいたい」と書きまして。すると当の外国人イスラム教徒の方からメッセージをいただきまして、それに今日はここでお答えしてみます
「日本人にとって宗教って文化じゃないですか?」
よくわからなくないですか?
どういう意味で言っているのだろう。。。
曰く:
「イスラム教では神のルール、神の真理、神の教え、神の定めたことっていうのがあって、だから人はそれに従わないといけない(従えるかどうかはともかく)っていう考えがある。それが宗教。けれども日本人の場合は宗教っていうのは単に文化なんじゃないんですか?なぜならクリスマスをやったり、教会で結婚したり、ハロウィーンやったり、あるいは初詣に行ったり、お葬式とか、色々な宗教の色々なイベントに参加していて、つまり文化として捉えているんじゃないですか?」
っていうご質問だったですね。
最初は、軽〜く返信するつもりだったんです「そうですね〜、そうかも知れない。」って。
でもハタと考え込んでしまって。おいおい、そんな単純なことじゃないだろ。
ちょっと違う。文化というよりも宗教観そのものが。
外国人イスラム教徒の宗教観と日本人の宗教観がそもそも違うんじゃないか?
日本人にとって宗教って、昔から神がいて、仏様もいて、そしてキリスト教もあって、また太陽を見たら手を合わせ、山海木月他にも、富士山とか色々な所で祈ってみる、信仰がある。選ぶんじゃなくある。
日本人にとって全てを創造した創造主っていうのは、寛容で大きく優しくて全てを受け入れて包容してくれる存在じゃないのか。
人間が、いい考えで、いい目的、いい心、いい意図で善いことを行なっている限り、どんな教えに従っていてもいいんです。日本古来の宗教であれ、西洋の教えであれ、インド哲学であれ、何でもいい。いいものはいい。
日本人の感覚の創造主っていうのは、もっともっと高い所にあって、私たちがいいと思っていいことをやっている限り、すべて何でも受け入れてくれる存在。ちゃんといい心根で真っ当で自分にも人にも誠実で、普通に悪いことをせず生きて、折あるごとに創造主に思いを馳せ感謝する。それで十分。
それなのに、その創造主とは何か?神か仏かイエスか、シヴァか、はたまたアッラーか選びなさい、なんて言うこと自体が無粋で、どれか選ぶこと自体が狭量で、もっともっと奥深く壮大な存在なのだから、拝むものなんて何だっていいし、それが時々に変わってもいいし、日本のものだって外国のものだっていいし、一つじゃなくても二つでも三つでもいい。
「本物は一つだけなんだからそれだけを拝みなさい!なんて言うから宗教間の対立が生まれるんでしょ?もっと大らかに受け入れなきゃ、何にでも、有難い有難いっていう遜った気持ちを持ってなきゃ。」って、イスラム教徒なんて一神教を標榜する、もしかすると料簡が狭い最たるもので、あらあらと憐れみすら持って見られているのかも知れません。
イスラムはああだ、こうだ、と伝えても、多々ある信条の一つで「いい教えねえ」という一つに過ぎず、それ以上でも以下でもないのが、日本人にとってのイスラムの現状かも知れない。
宗教は一つ、とする時点で、心が狭く視野が狭く排他的という風に映るから、家族伝来の仏様なり神様なりを拝んでいる限り害はないが、何か特定の宗教を選んでやっている人っていうのは危ないとかやばいと捉えられても無理もない。
神でも仏でも観音様でもお釈迦様でもそんなもの何でもいいのです。もっとその先の広いものを見据えているのだから。
日本人にとって宗教って文化に過ぎないんじゃないかって言われると、やっぱりハタと止まって考えて、結局そうだとも、そうではないとも言えず、そうですねえ〜等と答えてはぐらかしてしまう。つまり議論が噛み合っていないのです。
ただそこにはちゃんと信仰心っていうのがあると、私は思うんです。